レアなものに対する人の対応についてあれこれ考えたこと
ついに色違いレックウザを捕まえてしまいました。
レイドバトルが終わってこれが現れたとき本当に手が震えましたね。脳汁アドレナリンが出てるのがはっきりわかりました。
ボール7個しかなかったんですが、運良くボール2発目でゲットできました。
やっぱり色違いみたいなレアなことは特別感があっていいですよね。
今日もいい歳してポケモンばっかりやってたのかと怒られそうですが、はい、今日も真面目に勉強していました。同年代の人はみんな働いてますからね…
二階のカフェで勉強していたのですが、人通りの多い路地で外国人が何かショーみたいなことをしているのが見えました。
もちろん色違いっていうと失礼ですが、私の街ではまだまだ外国人、特に非アジア系の外国人を見ることは少なく、路上でこういうショーをしているのは初めてみました。
ショーと言っても、よくよく見続けてると、ただ大きな輪っかで大きなシャボン玉を作って飛ばしてるだけでした。
やってる外国人の方も笑顔を作ってるものの、特に何かパフォーマンスをしたり客に注意を引かせたりする訳でもなく、本当にただシャボン玉をすくっては飛ばすってのを繰り返すだけでした。
それでも通りを通りかかった人の結構な人数が足を止めていました。中には「日本を周遊するためのお金が必要です」と書かれた看板の前に置かれているビンにお金を入れてる人もいました。
もちろん私も歩行者だったら間違いなく足を止めていました。しかし、それはシャボン玉のショーがすごいからというよりも外国人が何かショーをやっているからという理由の方が強いと思います。
もし明らかな日本人がやってたら、なにこんな路上でシャボン玉なんて飛ばしてるんだ!邪魔だろ!ってさえ思ってたかもしれません。
兎に角も私が見ていた時だけでかなりのお金がビンの中に吸い込まれていってました...
ところで、色違いレックウザじゃないですが、何故ほぼ均一な集団の中に他と異なる存在がいると、その他と異なる存在に関して色々と違う結果になるんでしょうか。
レックウザに関して言えば色違いに出会うまでに苦労があります。苦労してレイドバトルしまくってやっと出会えたのが色違いレックウザです。
しかし、そもそもどうして苦労してまで色違いが欲しかったんでしょうか。
人はなんでもかんでも価値を付けたがります。相対的にレアなものほど価値が高く、何十万年とも言える人類の生存競争の中でそれを見出せる人が生き残ってきたとも言えると思います。
私が色違いレックウザを見つけてアドレナリンが出たのも先祖様から引き継がれた本能的なものでしょうね笑
ではシャボン玉ショーをしていた外国人はどうでしょう。たしかに外国人がショーをしているというのはレアではありますが、別に手に入れられるようなものでもありません。むしろお金を放出してる人もいます。
先ほど集団の中に他と異なる存在と言いましたが、この場合、異なる存在は集団の中に入っていないと思います。周りの集団にとってシャボン玉ショーをしている外国人は他の世界から来た人、例えるとファンタジーの世界です。
ファンタジー世界にいる外国人がはるばるここまできて何かしている、これを含めてショーになっているんだと思います。
この例でも人類が長年の歴史で培ってきた本能が役割を果たしていると考えてます。
つまり、先ほどのレックウザの例は相対的にレアなものに価値を見出す、でしたが、今回は絶対的に新しいものに価値を見出す本能が影響したんだと思います。
人は常に新しいことを学んでいかなくてはいけませんからね。
もし、この外国人の方が周りと同じ世界から来てると気付いた時、一気にその価値は無くなっていくのではないでしょうか。
なんか本能だの生存競争だの人間味の無いことを書いてしまいましたが、当然本当に親切心からこの外国人が日本周遊できるようにお金を渡した人もいると思います。
実は私も外国に行ってる時に何度か助けてもらったことがあるので、お金を渡しに行きました笑
でも、外国人がシャボン玉のショーしていても何だ大したことないなって(私も含めて)スルーできるようになって真のグローバル社会なのかもしれません。